22:30―doutor coffee shop


意味の無さを冗長に語る目の前の女の口に突っ込む金属食器の性質について考えていたのだけれど傍目に見たら物憂げにコーヒーを啜る様にでも見えているのだろうか。皮膚を僅かな朱色に着色する希望的観測、スプーンではなくナイフで、艶やかな材質で、砥がれている陶磁質でもあり、されど口腔に溢れ窒息に至るほど質量のある泥質のナイフ。そんなナイフはないか、きっとこの生き物が啜るには一番相応しい筈の。 水添ポリイソブテンプロピルパラベン酢酸ステアリン酸スクロースタール色素、それは人を殺す唇である。けれど目の前の女はあくまで無意識に。無意識に。若しかするとわたしを殺してから悲嘆に暮れ号泣しそんな悲しみですら嚥下してしまう強靭な意識を誇り微笑んで見せるのだろう。口に突っ込むなら焼け爛れた鉄にするのも好ましいかもしれない。しかし女はただの大多数の隣人のひとつであり他者でしかなく、わたしを殺す為に唇を重ねるような行為などしない。もちろんわたしも好きでもないし、性別が間違っているし、さらに厚塗りで皮膚を隠した年増のうつくしくないものと、そのようなことをする趣向は持ち合わせては居ない。健全な精神をもちあわせているために、夜のドトールで騒ぐ女と男を眺めているだけ。  深夜になると活発に動けるタイプの人間は社会不適合者と同意である、と妹は言っていたけれど、  深夜にしか動けない人間はもうそういう特性を生まれつき持ち合わせていたというだけであり、単に昼間に活動する生命体と相容れないというだけではないかと思う。  昼間に動くことが模範的であると定めたのが昼間に動く特性を持つ大多数の統率者たちであったがために、夜間生命体が非道徳的であるとされているだけだ。  大多数に従えば生きやすく、生活しやすい、ただそれだけのために昼間に活動せざるを得ない生き物も数多く居るのであろうと思う。  幸福なことにわたしはあえて大多数に所属することで日々の糧を得、精神の安寧を得なくてはならないほどに貧窮しているわけではない。  夜間生活を謳歌し労働を放棄しマイノリティに属しながらも毎日朝ドトールでミラノサンド食べて夜にドトールでアイスカフェモカ頼む余裕がある。  炊事が嫌いなのは性格が真逆な妹との唯一といっていいほどの共通点で、ほとんどが外食で済ませている。栄養摂取行為が面倒だという共通点でもある 。 わたしは面倒くさくなるとコーヒーもあまり飲まなくなるのだけれど、しかしながら陸上部に所属する妹は早朝からしっかりと人間らしい規則正しく過剰ともいえる運動をしているため、確りと朝から夜までなにかしらをどこかでたべているらしい。 生活リズムが合わずに同じ部屋に住んでいながら殆ど学校でだけ会う妹とは頻繁にメールをしている。妹は、なにかしらをどこかしらでたべるたびに写メを律儀に送ってくる。業務めいた報告の折々に、妹がわたしとは殆ど違う生き物である認識が深まっていく。誕生日時も先天的身体的特徴も利き腕も、模倣品のように酷似しているのに内部が恐らく殆ど違う。傍目には同じものであるのに内部を構成する部品の一つ一つがまったく違うと推測するのは奇妙に心地よい。たぶん。雑踏を必死で歩き、信号で律儀に停止し、似た様な時間帯の同じ鉄の車両で移動し、似たようなアスファルトの揺籃で、似たような行為をし似た様な賃金を稼ぎ、似たような趣味嗜好に恍惚を覚え、似たような時間に電気のスイッチを切る、あまりにも多くの外装が違うのに内部が違うそれらとは異なっている。  駅に併設されたドトールの窓際の席から、似たような、疲れた人々が重そうなカバンに倦怠感を詰めて帰宅する光景が見え続けている。どれもこれも女の皮膚は汗に溶けていて、男の足は未練を引き摺っている。まだ水曜日なため、酩酊したスーツ姿の生物はさほど見受けられず、皆一様に就寝を夢想しているようだ。正午時過ぎに起きて、おやつの時間過ぎに学校へ行き、4,5限だけなんとか出席して、保健室で寝てから今に至っているわたしは、まだあまり眠くはない。
「あ」
 アイスハニーカフェオレをとうに飲干して、氷が溶けた薄い液体を吸っていた緑色のストローを放して思わず声が出ていた。雑踏の中に見知った長身痩躯が、他の疲れた人々と同様に、歩くのを見つけたからである。面倒くさいな、とすぐ思ったのは、その長身痩躯が倦怠感と苛立ちを隠そうともしない引きつった眼球でこちらをまっすぐに捉えていたからだ。自動ドアを抜けて、レジに進まずこちらに来る。
「家帰れバカ、なんでいつもドトール居るんだバカ、せめて私服着ろよ補導されるぞバカ」
「おつかれさまです池澤先生、補導されるのあと30分猶予あるから大丈夫ですし、どうせこの時間に先生来るだろうと思って待っていただけです」
「うるさいバカ。こんな所で待たなくてもお前の家で待ってればいいだろう、徒歩数秒で着くだろ。あとまた今日保健室のドアが閉まってなかった、薬品棚の鍵も閉まってなかった」
「ごめんなさい池澤先生、あとバカバカうるさい」
「謝るなら帰る前にちゃんと鍵かけて帰れ。お前言っても直らなすぎる。三回目だから鍵を返せ」
「わたしこれでも一応委員長なので」
「委員長らしいこと一切してないじゃないか、節電政策無視してクーラーの設定温度勝手に19度にするし、よく授業サボって寝てるし、冷蔵庫に勝手にアイス入れるし。これからは保健室管理榎本の方に頼むことにする」「冬かあ。あの子はわたしと大いに異なって大いに偉いので毎日6時から朝練とだし、放課後は閉門まで部活してますよ。わたしだって怪我人来たら対応しますしベッド譲りますし、それに、ハーゲンダッツ好きじゃないですか先生」  先生は、おまえいちいちめんどくせー、と教職者にしては駄目な悪態を吐いた。そのままわたしの隣の席にかばんを置き、中から財布を取り出す。  
「春、お前は何か頼むか。どうせまた夜ご飯抜いてるんだろ」
「もう食べたからいいです」
「嘘付けー…。いいや、適当にかって来る。喫煙席の方移動しておいて、かばんの中パソコンあるから壊さないで」
「壊さないですよ」
「お前保健室のパソコン壊しただろ前」
「はい」
 池澤修一は、わたしと冬の通う高校の保険医であり、そしてわたしと冬の住むマンションの隣人である。29歳。数字だけ見ればかなり歳だと思うのだが、4,50代の教職員の中に混ざり生徒と生活している20代というのはなかなかに生徒の羨望を集める。保険医ゆえにあまり教鞭を振るう機会があるわけではないがクラスの副担任に付き、若いからといってなれなれしいわけでもなく誠実かつ時々親身に生徒に応対するため、生徒からの評判はさほど悪いとはいえない。輪郭、個々のパーツ、バランス、さほど突出した欠陥が顔面に見受けられないのに、肌が10代の女の子のように若々しいという利点があるために、恐らく平均よりは上の位置に属するであろう精悍な顔立ちをしている。それだから、尚更生徒に人気があった。主に女子生徒から。漫画や映画に登場するような熱血な教師ではなく、あくまで淡々と業務をこなす。優秀な箇所が多いからではなく、劣った箇所の少なさゆえに平均点が高くなる、熱烈に好かれるというわけではないからこそ、強烈に嫌悪されるというわけでもない。何かひとつに偏らないから何かひとつから迫害を受けることがない、先生のそういった特性をわたしは好んでいる。  先生の、書類やパソコンやしおりの沢山挟まった新書が詰まった重い黒革のビジネスバックと、自分のメイク道具が詰まったポーチとカードだらけの財布しか入っていない軽いスクールバッグを持って、喫煙席に移動する。弊店30分前ともなれば席に着く人影は疎らで、奥の2人席を確保する。灰皿を取ってきて、テーブルの上に置き、先生の鞄の横ポケットからセブンスターとライターを取り出し脇に置く。週5で先生とこうして夕食を共にするようになってから、場所がサイゼであれ居酒屋であれ近所のカフェであれ、灰皿の横にタバコとライターを置くのが習慣になった。子供が夕食の手伝いをするときに机に箸を並べるように。
「おー灰皿せんきゅ」
「先生、タバコもうないじゃないですか、朝かったばかりじゃないですか、喫煙者は死ねとはいいませんがせめて1日1箱消費するのはやめましょうよ、そんなんだからご飯が質素なんですよ薄給のくせに、ちゃんとご飯食べましょうよ見てください今日の春のご飯、朝からスープストックでミネストローネとカレーセットで、昼は駅ビルのデリカテッセンで買った海老のジェノバソースパスタサラダに野菜生活に、夜なんか彼氏さんが作ったらしい炊き込みご飯にさば味噌にあさりのお吸い物ですよ、すごくないですか。どこの勝ち組OLですかっていう感じです」
 スマフォの画面を見せながら妹の食生活を自慢すると、先生は「はいはい、」と生返事をしつつめんどくさそうに眉根を寄せて席に座る。重度の喫煙者であるために先生は毎日1箱煙草を消費する。「若い高校教師、しかも保険医なんかろくにお金にならないよ」と言って体重減量に励む女子高生のようにお昼を抜いたりするくせに毎日コンビニで440円落としているそういったところは酷く馬鹿で愛らしいような気がする。机におかれたトレーの上にはトールサイズのアイスコーヒーが2つに、ミラノサンドとミルククレープ。先生は、わたしの側にミルクレープの皿とフォークとコーヒーを置いた。 
「榎本は運動してるからこんなに食うんだろう。労働していないのに三食外食の奴には言われたくないしそんな人の栄養素心配してくれるんだったらお前が作れよ、せっかくマンションに立派なアイランドキッチンあるのに使うのは冷蔵庫とケトルだけでほぼ物置になってるんじゃもったいないだろ」
「冷蔵庫と冷凍庫しか使いません。ケトルすら使いませんね最近、夏ですし。ありがとうございます、いただきます」
 先生は、煙草に火をつけて、なにやら鞄から取り出した書類になにやらを書き出す。無言で仕事をしだしたところからするとおしゃべりは一旦やめろということらしい。手持ち無沙汰になったわたしは、また、窓の外の雑踏を見出す。先ほどより疎らになった人影はみな一様に睡魔を背負っている。眠いなんてことを知らない生き物はなんとなく強い、と思う。眠らなくても生きていけるから。先生が資料によくわからない単語を几帳面な字で書き込んでいるのを思考の半分で見ながら、スマフォでメッセージ画面を立ち上げる。一番上に表示される最も使用頻度が高い名前は「榎本冬子」。名前をタップして、液晶画面に打ち込んだ文字はいつもと同じ就寝を意味する挨拶の4文字で、それがつまり部屋に帰らないという意味であると妹と共有しだしたのがいつごろなのかを忘れてしまった。忘却は人体に備わった最も神の恩恵を受けたシステムである。都合の悪いことを都合よく処理し、無垢で無邪気な白痴のまま生かすすばらしい機能。忘却に至らせるには大多数の人間は脳を処理する為に一度睡眠をする必要がある。電子機器でいうところの、電源をOFFする、状態。ねむらないいきものは、睡眠をせずとも電源をOFFにすることが出来るのだと、思う。忘却を自己の裁量によって自由に操作できるという利点。そうじゃなかったら、昼間に蓄積したたくさんのいやなことがあるはずのわたしや先生が、眠らずに真夜中に好き勝手できるわけがないのだ。
「帰るぞ、どうせ今日も来るんだろう」
「はい。ぜひ」
「そういえば歯磨き粉切れてるんだけど」
「西友行きましょう」
「ハーゲンダッツはお前が買え」
「先生、10も離れた年下にアイスねだるのかわいいですね」
「お前の方が金持ってるんだろどうせ、宿泊費だと思って買えよ」
「はい」
 おやすみ、愛しい妹に送信したメールを確認して電源を切る。かばんにしまう代わりに先生の手を握る。夜行性のわたしはなにかしらを握らないといけないのだ。放した途端に倦怠がひたひたに満たされたプールに落ちてしまうような気がする。もしかしたらそれは、たぶん、強いことではないのかもしれない。




23:00― 北千住第三ステーションシティ 705号室


思考のスイッチというものを脳裏に浮かべるのが好きだ。長い距離を走るために深呼吸している時、試験の前にシャーペンをカチカチ通しながら、イラついた時に指先を爪で引っかきながら、不快な体温を周囲に感じながら満員電車に揺られるとき、さまざまなときに脳内にあるそれをパチリ、と押して状態を動から切、へ切り替えるのを夢想する。頻繁にスイッチを切る私の記憶はいつも酷く曖昧だ。毎日通っている筈の道程すら正確に覚えていない。電車に乗ろうとして反対車両にのるし、忘れ物が多い。早めに家を出ても何かしらのせいで遅くなるし、 何だかんだとさまざまな物事が滞る。しかしスイッチが切り替わっている間の私も私である為に優秀であり、なにごともとりあえずなめらかに運行する、経過していく。 私の意識が覚束無い間は違うわたしであるのではと思う。違うわたしが私の身体を渇望していつしかうっかり突き落されてしまったりしないか。 眼窩の中、或いは脳内に存在する想像上のスイッチの部屋は、カーテンのない大きな窓がありガラステーブルと黒いソファだけ真ん中におかれた12畳の広いリビングルーム である。私がその部屋で目を開けると窓の外に手があるのをまず直視することになる。ガラスの向こうで手だけが窓枠の上部から釣り下がっているらしく、カーテンレールにマネキンの手が装飾として付いている、とまず思う。 しかし遠くから凝視しているとどうやら手は生きている。皮膚は常人より遥かに色素が薄いが確りと血管があるのがわかるし皮膚の皺がかすかにある。生きているらしい若い女のたおやかな腕だ。その手は整えられた鋭利な長い爪でガラスを掻き毟っている。 床には塵埃1つ見あたら無く、冷蔵庫の起動音すらしない静寂、生き物の気配1つ無い。ただ白い手だけが視界を支配している索漠としたリビングルームである。スイッチは、壁にある。家庭用電灯のスイッチなどでよく見かけるタイプのものである。パチン、と切る。視界すらなくなり、聴覚視覚嗅覚触覚味覚、なにひとつとしてなくなり、体の隅から私が部屋に満ちていく。  スイッチは、引くものではなく押すものの方がなんとなく好き、パチンって音がすると消えていたものが点火するかんじ、とは姉の言葉だ。この部屋は私の半分である彼女の言葉の影響なのかもしれない、春の好きな黒、ガラス、埃の無い部屋、何も無い部屋、しんしんと煩いまでの静寂は、何か音がする空間が嫌いで耳栓代わりのヘッドフォンをする春の趣味によく似ている。この部屋を夢想するだけで私は何も考えることが無くただただ動くだけの身体になることが出来るのだ。
「ねえねえふゆー。聞いてる?眠い?冬のおねーさん、春子さんだっけ。保健室の先生と付き合っているとか言うの本当なの?」
「聞いてるよ、ちょっと眠いの。俊くんそういうの好きね、どこから聞いてくるのかしらないけれど。誰が言っていたの?あや?」
「あのことそんなに親しくないよ俺。知るも何も、わりと聞くけど。保健室でイチャイチャしてることあるから怪我してもらったときとか入りづらい、シーツ汚そうな気がして使えない、とか。部活の先輩とかわりと言ってる」
「春も池澤先生も、潔癖症だから、シーツが汚いことはないよ、たぶん」
「ていうかねむいのかー帰るよ、俺。やっぱりあの2人そうなんだ、すごいね」
「しらないよ。春から直接聞いたことはないもの。私も聞かないことにしてる」
「冬とおねーさん仲悪いの?きいちゃまずかったならちょうごめん」
「悪くないよ、むしろすごくいい。いいからなにも聞こうとしないし、言おうとしないの。俊くんなんかよりよほど春とメールするよ」
「うわあ嫉妬するね俺。冬ーあーん」
 背後から声をかけられて、唇を舐められる。舐められたので口を開けて舌を出す。そうやって教育されているので、鈴を鳴らしたらワンと吠える犬のような演技。口腔内に広がるハーゲンダッツストロベリー味と、生ぬるい体温。粘膜の生き物が上顎や舌上や歯列を這いずり回る。唾液の跡に甘い味が広がる。俊くんは突如こういうことをするのが好きで私は別段抵抗も拒否もしないのが好きである。そして俊くんは抵抗も拒否もしない人形のような私で遊ぶのが多分好きだ。1,2分飼い犬で遊ぶように舌が動き回っていて、突如パッと離れた。面白そうな玩具を見るときの生き生きとした目で私を凝視する。
「冬はかわいいねー。俺帰るね。おやすみ、アイスごちそうさま」
「そっか。鍵かけて帰ってくれるかな?もう動くの面倒なの」
「はいはいー」と言いながら俊君はリビングルームを出る。ドアを閉めるときに音が鳴らないようにそうっと閉める彼の配慮が私は好きだ。ガチャリと渡しておいた合鍵でドアを閉める音がした。動物みたいに急に動き、動物みたいに急に飽きる生き物。  壁の奥でガタガタと軋む何かを想像しながら、私は生き物として私を継続させる為にソファに横になる。ソファにかけていたブランケットをとり、包まる。また今日も帰ってこない春と、窓辺でゆれる腕のことを同時に思い出した。顔だけ持ち上げて窓を見ても腕は居ない。恐らく知っているであろうあのぬるい唇のことを、春はいつごろ知ったのだろうかと想像する。遠くて近い生き物である幸福、他人であるのに他人を共有する愉悦。器はふたつであるのに恐らく何かしらのコードだけ繋がっているのだろう。私は愛しい鋏を握りながら寝るのだ。いつかコードを切る夢を見る。
inserted by FC2 system