呼吸をするために必要なものは、文献の中に埋没しているアルファベットの羅列だけだった。整然と並ぶ、意味のコンテクストにだけ、宇宙を見た。紙片にタイプされた文化の象徴にだけ、意義を捜した。 デカルトは、『優れた書物を読む事は歴史上優れた人間と会話することだ』と言った。そのデカルトとも会話した彼にとっての読書とは、現実からの逃避であり、現実へ対峙する行為だ。見なくてはいけない現状から目をそらしながら、見なくてはいけない数字を直視すること。 彼の体は、数字と26個の表音文字で構成された陶器だ。決して温かくは無い。性別は男なのに、爪先から手首までの肉と骨の均衡は、男の骨張ったそれより、高貴な家系のしなやかさを持っていた。ただ、色素に酷く欠けていて女のような赤味を帯びていない。冷たく青い肌は、本当に陶磁器のようだ。彼の栄養素は、口腔から胃袋に落ちるのではなく、眼球から送信される光の屈折である。それだけで生きている。だから、こんなにも人間らしくない。
(事実人ではないのだが)
彼は、怠惰を四肢にまで行き渡らせて、革張りの白いロッキングチェアに埋もれながら、倦怠に揺れていた。 歴史的重要文献が陳列されている書架の建ち並ぶ奥には、彼しか入れない特別な部屋がある。あるのは、人間より文献を貴ぶ為の酸素制御装置と、ひとつの椅子、ガラスの曲線を描く作業机とスタンドライト、そして三方を囲む五六メートルはある高い書架。ガラス張りのICロックドア越しには人影ひとつない白い無機質な廊下が続く。古めかしい背表紙が並ぶ長方形の白の空間は閑寂に満ちていて、ひとつしかないスタンドライトの暖色光が虚無感を助長する。 年代別に整頓された本は遡上するにつれ、表紙が傷み、紙が植物製から動物製へ変わる。何度も捲ったことで掠れた表紙が彼に懐古を促す。 お前が見放した物たちだ、と囁く書籍の声を無視したつもりで、弱い心は無視しきれない。
こびり付いた指紋の数を、羊皮紙が吸った血の量を、思う。勿論思ったところで何かが出来るわけではないのだが。
はあと物憂い溜息こぼして、今日の死人を素早く記帳していく。そのうち数になる体温の記憶。 人はどこから人自身の形をなくして記憶になるのだろうか。

誰も救えない誰も救ってはいけない生きた神様はひとりで公平に嗤う。
ただ欠伸を洩らして生命を記帳する。
昨日も一千年前も多分明日も明後日も、神様より偉い何かが彼の首を絞めるまで、終わらない。



(働き蟻も女王蟻もみんな所詮ただの蟻)


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