「そこの川に巨大なアザラシが泳いできたんだって、ぱぱ、わたしそれをみにいきたいの」等と娘が言い出したのは吹雪が止まない2月のとある日だった。聞けばどこからか流れ着いたらしく氷だらけの河港でふらふらと泳いだりアスファルトに上り、傍に駐輪された乗用車のフロントガラスを破壊したりしているのだという。  
「ママのおともだちだったんだって、アザラシさん。だからママのニオイをたどったらこんなとこに来ちゃったって騒いでいるんだって」
「ママのお友達のアザラシさんなのかな」
「そういってるんだって」
 それならご挨拶にいかなきゃねえ、と娘をほめるように青白く冷たい手を握る。  
 娘に体温は無く、皮膚はうすあおい、薄赤い筈の爪は氷柱のような透明で、茶色い筈の髪は雪にコーティングされた針葉樹のような白だ。氷像のような白い少女は「うん」とうなずく。声の音はひんやりしている、吹けば消えてしまいそうな音。「わたしがね、ママににてるからぎゅってしたいんだって、アザラシさん」娘は路傍の枯葉を見つめて呟く。
「今からいこうか」
「いいの?」
「いいよ、ママのお友達にパパだって会いたいんだ」
「そうかあ、ママ溶けちゃったもんね」
「そう、パパのせい」
「パパのせい、パパわたしは溶かしちゃだめよ、ぎゅっしちゃだめ、ちゅーもだめ、ママにしたこと、ぜんぶしちゃだめ」
 娘は楽しそうに復唱する。言葉の意図をよくわかっていないような無邪気な笑顔を浮かべる。「ママはね、お前を産んだから溶けたよ」なんて敢えて教えることでもない。  ママは雪女だった。元々血液が氷で出来ている美しい人で、街を歩けばその白さに人がみな振り返るのだった。雪女はもう然程珍しくない国ではあるが、やはり駅で、道路で、彼女は少し目を引いた。なぜなら彼女が歩く端から白いゆきのけっしょうがおちて溶けていくからだ。しかし雪女は体は冷たくても温かい、「おとしましたよ」とゆきのけっしょうを拾い届けたのが彼とママの出会いだった。 「雪女は恋愛をすると溶けて死ぬ」というのは高校生で生物を選択し「ヒトとその類似」と言う項目を学ぶとわかることになるのだが、まだ娘は知らない。いつか知るだろうし、知ったらどうなるか、それは彼の知る由ではない。
「パパ、こっち」
 娘は足早に駆けていく。冷たい肌の娘は気を使ってか自分から他人の手を握ることをしないためにすぐに迷子になる。コンテナ倉庫が立ち並ぶ中を足音ひとつ立てずに娘が走っていき、すっと曲がり、視界から消える。ぽたぽたと垂れた雪の跡をみて追いかける。雪が混ざった磯風が頬に当たるのがべたつく。娘がいなければ、或いはママと出会うことが無ければ、こんな辺鄙な雪と海の匂いがする街に住むことも無かったのだろう、となんとなく考えた。
「ねえパパ」
 コンテナのひとつを曲がった先は海の前の通りである。いつもは海産物を運ぶトラックやそれを買い求めるヒトであふれているが、夕暮れのこの時間はトラックもまばらで、ヒトもいない、ペンチと街灯と柵が等間隔で並んでいる。その中にのっそいとした大きなモノがいて、傍らにニコニコと微笑む娘がいた。
「パパ、このひとだって」
 娘はぺちぺちとその巨体の浅黒い皮膚を叩く。「パパ来て」  
 笑顔、まるで昔のママみたいなきれいな笑顔をした。雪女はあまり笑わない、笑うと、溶ける速度が速まるのだ。だから雪女は人前にあまり出ないで雪国でひっそりと人目を避けて過ごす、ママは違ったけど。  
 足を一歩踏み出す、すると、大きなそのアザラシは剃り上がった上半身を頭に振り下ろしてきた。倒れる、それから、視界が霞む、さらに倒れこんだ上半身へ痛みすらない圧力。  
「パパ、わたしママみたいになるの嫌なの、あなたのママは間違ってるってアザラシさんが教えてくれたの、ヒトなんていないとこでしずかにすごすわ」
 そう言った娘は、ママのようにもう笑っていない。アザラシの巨体で頭蓋を砕かれながら、死ぬのか、と思う傍ら、そういえば雪女が冷たいのは皮膚が冷たいからではなく透明な体にヒトの考えが流れ込むからなんだそうだ、と言うことを思い出した。娘につけた名前はママの名前で、だけどママではなかった。  
 「ママ、好き」  
 声帯が潰されてうまく口に出来ないけどそう伝える。潰された眼球にはママの姿の美しい生き物が、無表情で私を見ていた。
わからない
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