「…………あー…なんだ、死ぬんじゃなかったの」
電車が目の前で発車されてしまったときの微妙な諦念と、それでもどうせまた直に来るよなああだけれど面倒だなあなんて倦怠の混ざり合ったものに、その声色は酷似していた。恐らく全力疾走で駆けつけてきてはくれたのだろう荒い呼気。だけどその行動の裏には些か諦観が含まれていたらしく、意外だと言わんばかりの空気が猫背の身体に纏わりついている。 驟雨を吸ってじめじめとしたコンクリートに投げ出した、包帯で雁字搦めにした骨張った腕をぼんやりと見つめながら、音楽の流れていない空気遮蔽用のヘッドフォン越しに陸の溜息を聞く。厭きれた様に、視線を送っているであろうという事は容易に想像がつくけれど、振り返るのは、何だか解せない。鋭利な爪先で包帯の裾を弄んでいると、「こっち」と、靴で背中を突かれた。 仕方なく譲歩してあげるからさっさとこちらに対応しろというそういう意味なのであろうが、何だか悔しい気がしてしまうのはきっと理子の思考がまだ幼いからなんだろう。嫌々、渋々(ああそれも態態陸を呼び出した理子の身からすると実に傲慢猛猛しいのだけれど)上目遣いでそちら側を睥睨した。 ちかちかと存在ばかりを華美に誇示する群像を背景に、すらりと病的な痩躯が相変らずの仏頂面で、幼子のように小首を傾げてを見下ろしていた。視線が追っている先は手に持ったカッターナイフかもしれない。時計の短針は一回転を疾うにして、もう既に昨日から今日へ、今日から明日へと変貌をしているのに、睡眠に興ずる筈の時間は飽くなき放蕩によって違う趣旨へと変わってしまっている。 あの光の中で一体幾つの感情が、金銭の前に捻じ伏せられているのだろうか?どれだけの愛情が、擦れ違いによって破壊されているのだろうか?どれだけの人間が、些細な事で除去されていくのだろうか? ごときの矮小な存在では把握しきれないほどの百千が、あの小指の先にも満たない電球の中にあるんだろう、そう考える度に身震いが止まらない。不安で思わず握り緊めたカッターを、もう一方の腕に突き立ててしまいたくなる。 酸素を多めに肺に取り込んで、プラスチックを強めに握り緊めて、刃先を向けようとする意思を阻止する。きちきちきちきち、赤い色に塗られた無骨なフォルムの文房具の刃先を出し入れしながら、「なんで、ここにいるの」と質問に質問で応答する。理子の眼球を、ふらりふらりあちらこちらに遊泳する陸のそれを捕捉するように動かしても、微妙に不足した距離の所為で焦点が合う事が無い。陸の眼球はきっと理子より虚ろだ。 くるくると何かを捕らえる為に虚ろになったとは違って、そもそも陸は何も捕らえようとなんてしていない。ただ、どこかに流されているだけ、見えない何かに捕縛されて連行されていくだけ……、どちらにせよ何も見えていないのだけれど。 理子の質問を聞く気は完全に無いのか、薄い脂肪の層の所為で骨格が薄く透けて露出している手先で、狭い空間に蔓延している有名なコンビニの袋を切裂いたり伸縮させたりしている。薄く延ばして爪で切れ目を入れて、伸ばして、なんて、怠惰の余りについ指が動かす動きは子供染みている。きちきちきちきちきちきち……当て付けの様にがカッターの刃先を出し入れしふやけた肌理に押付けたりしていると、それは視界に留まったのか「やめろ目障り」と理子を睥睨する。
「やめとけ?」
蒲魚ぶるのは嫌いなのだけれど、注意を引きたくて行った行為に大仰に反応を貰った事で否定せざる得なくなってしまい、呂律の廻らない舌で、嘘くさい疑問符を付けてまた問い掛ける。その陳腐な演技には早々に気づいているらしく、別段表情を変えることなく陸は「それ、カッター、やめなって」と包帯を指差した。 その行動に、理子は少しだけ、煌煌と明滅する生命の中の僅かな暗がりに紛れ込んでしまうような微量な口角の上昇が判って、「あれ?」とわざとらしい声で隠した。 お互いに、恐らく嘘くさい演技は得意分野なのだとは思う。叮嚀な演技は入用ではない。わざとらしさが鼻を突くくらいで十分なのだ。
「陸は僕にしんでほしかったんじゃないの?」
「死んで欲しいなんて言ってないし」
「なんだ、嘘吐き」
「嘘じゃない、何で態態こうやって駆けつけてるんだよ」
要求の物品、と淡淡と呟いて、陸はさっきから収縮させていたコンビニの袋を理子の顔面の直傍に落す。筋肉を弛緩させるように緩慢な動作で陸の指先から離れたポリエスチレンの破裂音は、ヘッドフォンに遮蔽された聴覚にもやんわりと浸透する。暗闇を嚥下せんと躍起になって触手を中空に張り巡らせたネオンサインの大群が視界の大部分を占めていて、理子の包帯と殺菌に用いられたアルコールに抱擁された痩躯に酷く倦怠を呼ぶ。黒なのか赤なのか白なのか緑なのか青なのか黄色なのかよく判別する事が出来ない視界の中で、黒いシャツに細身の黒のパンツを纏っている陸の形はやけに炳乎と存在を誇張していた。黒に稀釈した黒は色の混合の中で最も明確な色彩だ。判りやすい。闇と睡眠を遺忘した数多の擾乱を背景に、精緻なかんばせを眼球に写して、がきちきちきちきち、親指のスライドに耽溺していると、陸はやはり怠惰を露骨に誇張しながら理子のちいさな躯体に細く長い手を伸ばした。 昼過ぎまで降り続いていた驟雨の残滓が見受けられるコンクリートに寝そべる理子の身体を縫合するように、四肢で手足を留める。右手は顔の横、左手は水のペットボトルとハーゲンダッツが僅かに除くポリエスチレンの横。 四つん這いにして、理子の自由を束縛する。逆様に、精緻なかんばせが理子を一面に映す。だけど、それほどまでに至近距離にある眼球でも、どこかその黒色は此方を見つめていないような気がして、理子は酷く不安定になった。何所を見ているのだろうか、何か違うものが見えているのだろうか。 陸の短い髪が重力に随ってさらりと零れたのを視界に留めながら、理子は「髪の毛伸びたね」と状況に余りに不似合いな訥訥とした声音で訊ねた。
「うん」 「会ってなかった」 「久しぶり?」 「そう」 「死のうとしたから」 「呼んだわけではないよ」 「呼んだよ」 「アイスを呼んだだけ」 「そう」 「そう」
陸は理子の首筋を撫でる。ように、して、骨筋を確認する、急所の薄いセロファンのような皮膚が微かに振動するのを確認する。 理子は身じろぎひとつせず陸のシャツとコンクリートの隙間から見えるマンションの光を見ていた。ぱちん。オフ、で消える一部屋。一部屋一部屋一部屋。 機械のようにオフにする人体のスイッチだとか? そんなものはどこにと弄る腕が首筋を、
「あ、溶けてる」
「え」
「忘れてた。ドルチェのティラミスとクリスピーサンドのカスタードプティングと、クッキークリームとストロベリーどれがいい?」
「随分、沢山買ってきたんだね…」
「いらない?」
「いるよ」
プラスチックのスプーンを点線を無視して縦に破いて、理子の上に落す。斜めに入った亀裂が生生しく湿った外気を取り込んでいた。ああ、もう腐敗した。
腕が首筋から離れてしまうのがどこか寂しかった。
おはようしにたがり
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